目次
セラピスト「ふなこしのりひろ」
1974年生まれ 愛知県名古屋市在住
人工股関節の手術宣告された股関節痛、病院で治らなかった四十肩の痛み、一生治らないと言われている自己免疫疾患、膠原病、リウマチによる全身の痛み、心療内科で解決しなかったうつ病、これら全て病院に頼らず自分自身で治してしまったセラピスト。
「痛みについて本当のことを世界中に伝え、無駄な痛みや手術を撲滅する」を使命の一つとして感じている。
- 理学療法士(国家資格)
- 細胞環境デザイン学認定講師(杏林予防医学研究所)
- エキスパート・ファスティングマイスター(断食指導者)
- メンタルケア・スペシャリスト
自分の直感や感覚を大切にし、良い気分になることを最優先にして行動しています。自分が見ている世界、体験している世界は、全て自分で創り出していること、「人生は全て自分自身でコントロールできる」ということを知っていて、それを体現しています。
股関節痛を根本的に治す「股関節痛パーフェクトセラピー」、健康にとって正しい歩き方の指導、ファスティング(断食)のサポート、心のカウンセリング、自家焙煎コーヒー豆の販売などを行っています。
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ふなこしのりひろ略歴
★無邪気な時代(生誕~中学)
1974年3月、東京都荒川区で生まれる。その後、1年ほどで横浜市緑区(現在は青葉区)に引っ越す。どちらかと言えば引っ込み思案だったが、いたずら好きでもあり、小学校の先生にはよく叱られていた。
1983年、小学4年生の6月、名古屋市西区に引っ越す。周りから聞こえてくる名古屋弁によって、方言というものを初めて知る。最初の頃は、クラスの友達が何を言っているのか、さっぱり分からなかったこともあった。
1987年、中学2年生になると同時に、名古屋市名東区に引っ越す。
★心の問題で無気力に(高校~20歳)
1989年、愛知県立旭野高等学校に入学する。子どものころからその傾向はあったが、女子の目を過度に気にするようになり、自分の気持ちをどんどん抑え込むようになる。
クラスメイトからは「お前、暗いね~」って言われたりしてた。そして、やたらに授業中にトイレに行きたくなったり、真っ直ぐ歩けなくなったりした。
このとき、自分に何が起こっているのか全く分からなかった。人生初めての暗黒時代を味わい、かなり苦しかった。このころから女子が怖くなっていき、女子を嫌うようになっていった。本音では女子と仲良くなりたかった。
高校2年になると、男子クラスになりホッと一安心。高校時代、いわゆる「青春」というものは全くなかった。
1992年、高校卒業後、特にやりたいこともなく、大学には行くものだと、なんとなく思っていて、なんとなく浪人して、河合塾に通う予備校生となった。
子どものころから城や建物が好きだったので、建築学科を目指すことに。浪人中にレス・ポール・モデルのエレキギターが無性に欲しくなり、Orville(オービル)のLes Paul Customのブラックを入手。
1993年、1年浪人した後、神奈川大学工学部建築学科に入学し、横浜市港北区に引っ越す。大学に通い始めてすぐの5月ごろ、無気力となり大学に行くことができなくなってしまう。
一人暮らしをしていたアパートで、引きこもり生活を送ることに。外に出るのが怖くなり、ドアを開けることができなくなった。必要最小限の買い物以外は、全く外に出なかった。人生2度目の暗黒時代。自分に何が起こっているのか全く分からなかった。
「こうなったのは、この大学が自分に合っていないからかも」と思うようになる。元々どうしても大学生をしたかったわけではないから、いっそのこと大学を辞めて働こうと考えるようになる。大工さんになろうかとも考えた。
7月中旬、原付バイクで横浜のアパートから実家のある名古屋に帰省する。大学の夏休みの間、高校の友達と一緒に毎日のように名古屋で警備員のアルバイトをする。
そこで知り合ったバイト仲間の一人から、どういう理由か分からないが、突然「お前って、ナチュラリストだよな」と言われる。この警備員のバイトで、人の役に立っているという充実感を始めて味わう。
8月下旬、神奈川大学を辞める決意を固め、親に相談する。警備員のバイトで無気力状態を脱していたので、自分の希望を語れるようにはなっていた。別の大学に入れば、普通に大学に通えるだろうと考え、実家に戻って仮面浪人をさせてもらうことになった。
9月中旬、神奈川大学に休学届を出し、横浜のアパートを引き払って、名古屋に戻る。警備員のバイト仲間から「ナチュラリスト」って言われたのがきっかけとなって、子どものころから自然が好きだったこともあり、地学系の学科を目指すことに。
親の負担を最小限にするために、国立大学を目指すことに。予備校には通わず、1浪のときに使っていた教材をひたすら勉強した。
このとき、実家の本棚にあった加藤諦三さんの本と出会う。本のタイトル「強気の人・弱気の人」を見て、「お父さん、こんな情けない本を読んでいるのか~」って思ったが、なんとなく気になって読んでみたところ、心の問題について書かれていて、「この内容、もの凄く自分に当てはまっている気がする」って思った。
このとき、初めて自分の心に問題があることを知り、ショックを受けた。大学受験が終わった後、何度もこの本を読み返し、重要なところにピンクの蛍光ペンでアンダーラインを引き、心の問題を解消するために自分がすべきことを暗記しようとした。
1994年、愛媛大学理学部地球科学科に入学し、愛媛県松山市に引っ越す。そして、初めての中型バイクYAMAHAのVirago(ビラーゴ)400ccを入手。
心機一転、見知らぬところで、新たな大学での楽しい暮らしを夢見ていたが、5月中旬、再び無気力となり大学に行くことができなくなってしまう。加藤諦三さんの本を読み漁った。「何のために生まれてきたんだろう」と常に考えるようになった。
6月に入り、夜な夜な一人でバイクで街中や田舎道を走り回る生活をする。決して暴走族ではない。こんなことをしている自分は、尾崎豊みたいだと思った。尾崎豊の曲は良く聴いていた。人生3度目の暗黒時代。
いよいよこれはヤバいと思い、大学の相談所で相談したり、松山の日赤病院の心療内科を受診したりした。日赤病院ではうつ病と診断され、抗うつ薬を処方された。薬を指示通りに服用していったが、一向に状態は良くならず。
7月中旬にバイクで名古屋の実家に帰省する。住宅地図の調査のアルバイトや、前年と同じ警備員のアルバイトをする。
★心の問題に取り組み始める(20歳~24歳)
大学を変わっても全く同じ状態になっているので、これは心の問題を解決させない限り永遠に続くだろうと考え、腰を据えて心の問題に取り組む決心をする。
加藤諦三さんの本に「それらすべての重苦しい不快感の原因は、結局自分が自分を頼りにできない、ということにあると理解し、自らを再教育していこうとする姿勢が必要である」と書いてあったこともあり、大学を辞めて親からの仕送りもストップしてもらい、自分で得た収入だけで生活することにした。要は、一人暮らしのフリーターになったということ。このとき20歳。
9月に愛媛大学に休学届を出し、10月中旬から松山市内のガソリンスタンドでアルバイトをすることになった。このとき「自分を変えるんだ!」という決意を強くし、「ありのまま」でいることを徹底した。
バイト先の人たちに、自分が思ったこと、感じたことを、そのまま言葉にして話すようにしていった。自分が好感を持てるバイト先の人のキャラクターを、コピーして取り込んでいった。
ガソリンスタンドなので、しょっちゅう大きな声を出すことになり、それが抑圧している自分を解放することになった。すると、急激に生きるのが楽になっていき、毎日が楽しくなっていった。「生きている」っていう手応えがあった。
1995年、心の調子が良くなってきたので、今後の人生についても考えることができるようになり、愛媛大学への復学を選択する。
4月、ガソリンスタンドのアルバイトを辞め、一つ下の学年の学生と一緒に、大学の講義を受け始める。
しかし、フリーターをしていたころの解放感がなくなり、生き辛さが復活してきてしまった。ただ、なんとか大学で過ごすことはできていた。日赤病院の心療内科にも通い続け、抗うつ薬を飲み続けた。
5月3日、バイクに乗っているときに交通事故に遭い、右股関節を脱臼骨折し、右脛骨を粉砕骨折する。愛媛県宇和島市の病院に搬送され、そこで手術を受け3ヶ月入院することとなる。このとき少しだけ、大学に通わなくて良くなったことに、ホッとしていた。
8月上旬に退院し、しばらく松葉杖での生活を送る。10月から再び大学に通うようになる。心の問題を解決することを最優先にして大学生活を送った。このころはまだ人と自然に接することが難しく、得体の知れない苦しさ、居心地の悪さを、しょっちゅう感じていた。
1996年、大学の友達とバカ騒ぎして楽しく過ごすこともできていたが、心の苦しさに落ち込むことも多かった。大学時代は、その心の苦しさをなんとかしたいがために、ガソリンスタンドのアルバイトを転々とする。
3月、再び中型バイクHONDAのSteed(スティード)VCL400ccを入手する。初夏のころ、友達に誘われて大学の軽音楽サークルに入る。(確か)12月、サークルのイベントで、ライブハウスで初のライブ演奏をする。ロック系のコピーバンドのリズムギターを担当していた。
このときやった曲は、Sex PistolsのAnarchy in the U.K.とか、NirvanaのSmells Like Teen Spiritとか、Ozzy OsbourneのCrazy Trainとかだった気がする。演奏が終わりギターを楽屋に置いて他のバンドを観にフロアに行き、その後楽屋に戻ってみると、ギターのヘッドとネックの間が折れていた。かなりショックを受けた。
心療内科に通って抗うつ薬を飲み続けていたが「心の問題が薬で治るわけがない、心の問題は自分自身で生き方を変えることでしか根本的には解決できない」との思いが強くなり、通院をやめ薬も飲まなくなった。
1997年、3月に大学の友達と二人で、バイクで沖縄まで2泊3日の旅をしに行く。「もっと自分を変えたい!もっと強くなりたい!」と思うようになり、ふと思いついて、8月上旬に、バイクにテントと寝袋を積んで北海道まで一人旅をしに行く。
走ったルートは、住んでいる松山→実家のある名古屋→祖父母のいる三島→茨城の水戸→青森の八戸→北海道の苫小牧→富良野→美深→稚内→留萌→札幌→苫小牧→八戸→三島→名古屋→松山、といった感じだったと思う。
約2週間の一人旅。この一人旅を経験したことで「何でも自分でできるんだ!自分の力で生きていけるんだ!」という自信がついた。このとき23歳。その後、心が少しずつ楽になっていき、楽しく充実した大学生活を送れるようになっていった。
秋頃、エレキギターGibsonのLes Paul Standardのハニーバーストを入手する。これは今でも使っている。
★お金持ちの寂しい生活(25歳~27歳)
1998年、大学卒業が近づいてきていたが、特にやりたい仕事もなく、卒業後にフリーターをしながら自分の道を探していけばいいやって思っていた。ただ、友達がそうしていたので、なんとなく就職活動もしていった。
すると、運良く(?)専攻学科に関連する比較的大きな会社から内定をもらった。せっかく内定をもらったので、そこに就職することにした。その後、ビックリしたことに、いきなり縁もゆかりもない土地である北海道は札幌での勤務を命じられた。
1999年、4月に国土防災技術株式会社に入社し、札幌支店配属となり、札幌市東区に引っ越す。地すべりや崖崩れなどの自然災害地を調査し、ダムや井戸などの対策工の設計をする仕事に従事する。
日中は現場の災害地を重い機材を担いで歩き回って調査し、夕方に事務所に戻ってからはデータ入力や図面作成などの仕事を行う。毎日忙しく、家に帰るのが夜遅くになることも多く、休日出勤も当たり前で、かなりハードな仕事だった。札幌では友達もいなく、仕事ばかりの毎日だった。人生4度目の暗黒時代。
ただ、ありがたいことに、残業代は全額支給され、多額のボーナスも支給された。一方で、遊びに行くことがなく、お金を使う機会がほとんどなかったので、貯金がどんどん増えていった。
お金はあるけど遊べない暮らし。こんな生活は嫌だと思うようになり「仕事とはいったい何か」ということを考えるようになる。「人生の大部分の時間を仕事に費やすわけだから、好きな仕事をしないと無駄な人生になってしまう」と思うようになり、転職を考えるようになる。ギターが好きだからギタリストになろうと思ったり。
このころから自己啓発本を読み漁るようになる。
2000年、3月に入社2年目にして大型バイクHARLEY-DAVIDSONのFLSTC(ヘリテイジソフテイルクラシック)を新車で購入。確か全部で240万円ぐらいだったと思うが、店頭で全額現金で支払った。このバイクは、その後いろいろカスタムしながら、今でも乗っている。
自分を表現して誰かに伝えたいと思うようになり、詩や短い小説を書くようになる。本当は、歌やギターで表現したいと思っていたが、どちらも下手くそすぎて、そんなことをする気にはなれなかった。どんどん会社に行きたくなくなる。確かこのころ、金盛浦子さんの本に出会い、心の支えとなる。
7月ごろ、右の股関節を深く曲げると、右脚後面全体にしびれ感や痛みが出るようになる。その後、腰痛も出るようになり、9月に病院を受診したところ、腰椎椎間板ヘルニアと診断される。
腰痛がどんどん悪化していき、仕事をできる状態ではなくなっていった。主治医の勧めにより、安静治療を目的に10月に3週間ばかり入院することになった。この入院で腰痛はいくぶん楽になり、仕事に復帰した。
2001年、腰痛が再び悪化していき、朝に目が覚めてから1時間ぐらい、痛みでベッドから出ることができなくなった。家の柱にしがみつくことで、なんとか立ち上がれるような状態。まともに歩けなくなってしまった。
主治医が言うには、手術をするしかないとのことで、2月に再度入院し、腰椎椎間板ヘルニア除去術を受ける。このことで、職場を退職するための立派な(?)口実ができたと、内心少し喜んでいた。手術して麻酔から覚めた後、腰痛はウソのように消えてなくなっていた。
さすがにこの仕事を続けていくのは、精神的にも肉体的にも無理だと悟り、今後の進路を検討し始める。直接的に人の役に立つ仕事がしたいと思うようになる。
心の問題を自分自身で克服した経験を活かし、同じような悩みに苦しんでいる人のためになりたいと思い、心理カウンセラーの仕事をしたいと思うようになる。一方で、行き先も期限も決まっていない、長い一人旅をしたいと思うようにもなる。
★新たな船出と沈没(27歳~29歳)
7月、会社を退職し、札幌の部屋を引き払い、心理カウンセラーになることを念頭に、バイクにテントや寝袋などのキャンプ道具を積んで一人旅を始める。
北は北海道の宗谷岬から南は鹿児島の屋久島まで、気の向くままにバイクで走った。野宿をすることもあった。そのときの行き先は、そのときの直感で決めていた。このときに、直感で行動するスタイルが身についていった。
11月下旬、名古屋の実家に戻り、旅を終えた。約4ヶ月の一人旅となった。最高に楽しかった時期を過ごし「自分を遮るものは何もない!」と感じるようになっていて、万能感に満ち溢れていた。
2002年、旅を終えた後、臨床心理士になろうと思い、2月に大学院受験のための予備校に入る。大きな希望を持って心理の世界に飛び込んでいったが、厳しい現実を知ることになる。
臨床心理士になっても安定した職場に就職することは難しい、心理カウンセリングをする中でクライアントさんから大きな心理的ダメージを受けることがある、といったことなど。
プライベートでも困難に直面していて、7月中旬に臨床心理士になることを断念した。希望を失い、一気に闇の中に突入していった。
このころ、結婚して家庭を持ちたいという思いが強くなっていて、再び会社員になることを目指し就職活動を始める。しかし、なかなか就職が決まらない。貯金も底を尽いていき、憔悴していく。毎日を無駄に過ごしている気がしてならなかった。
仕事がないということが、これほどまでに辛いことなんだということを、初めて味わった。人生5度目の暗黒時代。
2003年、就職活動に支障が出ないようにとアルバイトをせずにいたが、いよいよ貯金がなくなりそうだったので、3月から朝刊の新聞配達をするようになった。
一向に就職が決まらず非常に苦しんでいた夏頃、母の友達がこの状況を知り、その方がこのことをご主人に伝えたところ、ご主人の会社で正社員を募集しているから一度面接に来ないかと申し出てくれた。
秋から冬にかけて、一次面接、二次面接が行われ、採用が決まった。ちなみに9月下旬、名古屋市の名東区から熱田区へ家族全員で引っ越した。
★束の間の喜びと心の問題再燃(29歳~30歳)
2004年、4月にコベルコ・コンプレッサ株式会社に入社し、近畿支店配属となり、兵庫県西宮市に引っ越す。勤務地は大阪市中央区本町のあたり。
サービス営業担当として、神戸製鋼所製コンプレッサー(空気圧縮機)のサービス工場へ技術的なアドバイスを行ったり、部品の販売を行ったりする仕事に従事。
正社員としてフルタイムで働けることに大きな喜びと安心を得ていた。ただ、見知らぬ土地で友達もおらず、札幌のときのように寂しく過ごしていた。
2005年、仕事にも慣れてきて余裕が出てきたので、心のことを学びたいと思うようになり、メンタルケア・スペシャリスト基礎課程(メンタルケア協会)を受講し修了する。
5月に神戸支店が開所しそこへ異動となったため、神戸市中央区に引っ越す。勤務地は兵庫県播磨町。仕事柄、取引先との飲食やゴルフが増えてきて(いわゆる接待)、仕事が嫌になっていく。
仕事に希望を見出せなくなっていき、休日も一人きりで過ごしていたので、だんだんと悲観的になっていき、心の問題が再燃してくる。重苦しさを感じるようになり、死にたい気分になっていった。
このままでは本当に死んでしまうかもと思い、神戸市の心療内科を受診した。カウンセリングを期待していたが、そこの医師はこちらの話をたいして聞くこともせず、抗うつ薬を処方して診察を終えた。このとき、非常に腹が立ったのを覚えている。
★本来の自分へ向かい始める(31歳~37歳)
別の道に進まないとダメだと思い、新たな道を探すが、やはり心理カウンセラーになりたいという気持ちが強かった。そこで思いついたのが「心理カウンセラーにならなくても、医療や介護系の仕事に就けば、患者さんや利用者さんへ心理的なサポートができるのでは」ということ。
そして、自分が興味を持てそうな医療や介護の仕事を調べ、理学療法士という資格を見つける。9月、理学療法士養成学校入学のための受験勉強を始める。
2006年、3月に会社を退職し、実家のある名古屋市熱田区に引っ越す。4月、中部リハビリテーション専門学校理学療法学科夜間部に入学。昼間はアルバイトをして、夕方から学校に通う生活が始まる。このとき32歳。
アルバイトは数回変わり、看護助手、名古屋大学工学部情報科学研究科の車の実験助手、建設コンサルタント会社の設計補助など。
学校のクラスの中で一番年上ということもあり(珍しく他にも同年齢のクラスメイトが2人いた)クラスの級長をすることになった。クラスでコピーバンドを作り、学祭などでライブ演奏をする。
夜間部ということもあり、クラスメイトには社会人を経験して入学した同じような境遇の人が多く、とても話が合い学校生活はもの凄く楽しかった。休みの日も、みんなで集まって飲んだりイベントをしたりして盛り上がった。テスト勉強や実習、国家試験の勉強はかなりきつかったが、とても充実した毎日だった。心の問題はかなり解消されていった。
7月、メンタルケア・スペシャリスト実践課程を修了する。
2008年、3月に約2週間イギリスで一人旅をする。初めての海外。ブリットレイルパスを使い、北はスコットランドのエディンバラまで行った。宿はユースホステルかゲストハウス。帰りに香港で半日ほど過ごす。
2010年、4月に理学療法士となり、名古屋市昭和区にある聖霊病院リハビリテーション科に入職する。このとき36歳。
人工股関節全置換術後(THA)、人工膝関節全置換術後(TKA)、腰椎椎間板ヘルニア術後、脊柱管狭窄症、腰椎圧迫骨折、各種骨折、がん、心臓病、脳卒中、糖尿病、呼吸器疾患、パーキンソン病、認知症など、様々な疾患に対するリハビリテーションを行う。
当初想定していた通り、患者さんへ心理的なサポートも行っていく。どういう経緯か忘れたが、院内の糖尿病チームに参加することになり、糖尿病のリハビリを熱心に勉強する。
院内で患者さん向けに数ヶ月に1回行われるコンサートで、ソロギターを演奏するようになる。リハビリテーション科の新年会でも毎年のように余興を企画しギターを弾いた。
7月、理学療法士の学校の友達に誘われて、初めてサーフィンをする。雨の中のサーフィンだったが、波に押されて前に進んでいく感覚がとても楽しかった。さすがにボードの上には立てなかった。
その後、サーフボードを購入し、2週に1回ぐらいのペースでサーフィンに行く。12月、職場近くの名古屋市昭和区の川名に引っ越し、一人暮らしを始める。
2011年、9月に行われた第25回東海糖尿病治療研究会糖尿病患者教育担当者セミナーで症例発表を行う。糖尿病のリハビリを熱心に行う一方、患者さんの訴えで最も多いのは「痛み」だということに気づいており、痛みへの関心が強くなる。
★股関節痛を治しFeuno開設(37歳~38歳)
11月上旬、突然右の股関節に痛みが出るようになる。12月上旬、大学病院を受診したところ、外傷性変形性股関節症と診断され、人工股関節の手術を勧められる。このとき37歳。手術を断固拒否し、手術をせずに治す方法がないか模索する。
2012年、2月から歩き方を変えたり筋肉をもみほぐしたりして、股関節痛を自分自身で治す取り組みを開始する。半年後の8月ごろ、股関節の痛みはほとんどなくなる。
手術宣告された痛みでも手術せずに治せるという経験をし、僕と同じようなことで悩み苦しんでいる痛み患者さんの役に立ちたいと思うようになる。
12月9日、股関節、腰、膝の長引く痛みを根本的に治すためのセラピーサロン「Feuno(フーノ)」をオープンさせる。場所は名古屋市昭和区の桜山。マンション1階の1室を借り、そこで「痛みセラピー」を行うようになる。
★痛みや健康への探求が深まる(38歳~41歳)
2013年、3月上旬に左の肩に痛みが出るようになる。職場の整形外科で診察してもらったところ、肩関節周囲炎と診断される。いわゆる、四十肩、五十肩といったもの。
この痛みを治すには、どのような治療が最も効果的かを確かめようと思い、様々な治療を試みる。鎮痛薬、マッサージ、鍼、トリガーポイントブロック注射などの治療を実施するが、結局どれも奏功せず。
そうこうしているうちに、12月に右の肩にも痛みが出るようになり、両肩とも四十肩という状態になる。
2014年、3月に名古屋市千種区の名古屋大学のあたりに引っ越す。4月にリハビリテーション科副主任に任命される。入職4年目での役職任命は過去最速だった。
5月下旬にハワイで結婚式を挙げる。このとき40歳。5月末にJARTA(Japan Athletes Rehabilitation Trainers Association)のベーシックセミナーに参加し、初めて東洋医学的な考えに触れる。9月にJARTAのADVANCE Ⅰを修了。10月に娘が生まれる。
11月、職場の作業療法士の先輩から千葉修司さんのメルマガを紹介され、経営のコツやファスティング(断食)について知る。
「Feuno」の活動を趣味的なもので終わらせるのではなく、本業として取り組んでいく決意をする。12月9日から「Feuno」のメルマガを毎日配信し始める(2020年に終了)。
2015年、1月上旬に体軸Bodyworker認定講師資格講座に参加し、科学では説明できない見えない力の存在を知る。後に体軸Bodyworker認定講師となる。
1月下旬に初めて古武術体験会に参加し、見えない力が存在することを確信する。これまで「科学が絶対だ!科学的に証明できないものは信じない!」というスタンスだったが、これがこの時期に崩れていくことになる。
2月、セラピーサロンとして借りていた桜山の部屋を引き払う。これ以降は、必要に応じて名古屋市千種区の千種駅近くにあるレンタルサロン「roomCREA」でセラピーを行うようになる。
2月上旬、肩の痛みがどうなるか実験するため、ファスティングを7日間行う。このファスティングは、全く飲まず食わずではなく、ファスティングドリンクと水を飲みながら行うもの。すると、両肩の痛みが激減し、ファスティングの威力に衝撃を受ける。
ファスティングのことを専門的に学びたいと思い、5月に知り合いが開催したファスティングセミナーに参加する。6月、再びファスティングを6日間行い、ファスティングマイスター、エキスパート・ファスティングマイスターの資格を立て続けに取得する。
痛みを根本的にコントロールしているのは、全身の一つ一つの細胞だということに気づき始め、細胞について深く学びたいと思うようになる。
両肩の痛みはどんどん軽くなっていき、9月ごろ、気づいたら両肩の痛みは消えてなくなっていた。
9月、細胞について学ぶため、京都の杏林予防医学研究所にて、杏林アカデミー中級講座を受講する。
研究所の所長で講師の山田豊文先生は、ファスティングドリンクを使ったファスティング法を開発した人で、横綱白鵬関、女子プロゴルファー横峯さくら選手、アントニオ猪木、EXILEのATSUSHI、落合博満、プロ野球各球団など、各界の著名人に対して栄養指導やファスティング指導を行っている。
山田先生は、全身約60兆個とも言われる細胞が健全に働けなくなると様々な病気を発症していくことになり、病気を予防し治すためには細胞が健全に働ける環境を整えることが必要との考えから、「細胞環境デザイン学」を体系化し提唱している。12月、杏林アカデミー上級講座を受講する。
★見えない世界とコーヒー(41歳~47歳)
2016年、人間の本質について深く考えるようになる。幸せとは何か、生きるとは何か、死んだらどうなるのか、こういったことへの興味がますます強くなり、それに関連する本を読んだり動画を見たり、セミナーに参加したりするようになる。量子力学についても独学で少しずつ学んでいく。
6月末、細胞環境デザイン学認定講師の資格試験(杏林予防医学研究所)を受験。合格し、細胞環境デザイン学認定講師となる。
8月末、知り合いに誘われて、障がい者グループホームの立ち上げに参加することになり、聖霊病院を退職する。「Feuno」の活動を積極的に推し進めるための選択だった。このとき42歳。
9月から知り合いの会社に入社しグループホーム運営に携わるようになったが、想定していた状況とは全く異なってきたため、11月下旬に転職を考えるようになる。12月末、名古屋市名東区の星ヶ丘のあたりに引っ越す。
2017年、1月に「Feuno」の活動を副業として行っても良いことを条件に、リハビリ専門デイサービス「はなのき」を運営している会社に入社する。名東区の高針あたりにある店舗で、機能訓練指導員として働く。
9月上旬、友達からハッピーちゃんの実現リモコンの動画を紹介してもらう。この動画で初めて「今ここで気分良くいることが全て」ということを知る。ハッピーちゃんの考えのベースになっているエイブラハムの本も読み始める。
9月下旬、長引く痛みを治すための各種マニュアルを作成し、「痛みセラピー」のサービスをオンラインで完結できるようにする。これにより、世界中どこからでも「痛みセラピー」を利用できるようになる。
10月、ユニクロ長久手店に行ったとき、たまたまイベントで店内に出店していた「SIENA COFFEE FACTORY(現IMOM COFFEE ROASTERS)」のコーヒーを飲み、その美味しさと飲みやすさに感動する。自分でも同じようにコーヒーを淹れたいと思うようになる。
12月末、初めてコーヒーミルを購入する。ザッセンハウスのブラジリアで色はブラック。これ以降、毎朝早くに起きて、コーヒー豆を挽いて、コーヒーを淹れて飲むことが日課となる。
2018年、4月からリハビリ専門デイサービスの新規店舗(吹上店、後の春岡店)の施設長となり、立ち上げを任される。
利用者定員18名の店舗で、会社の目標は6ヶ月で120名の集客だったが(これはかなりハードルが高い目標)、5ヶ月で目標を達成し社内の最速記録を作る(もちろん他の社員やスタッフさんの協力があってのこと)。このとき常に意識していたのが、楽しく気分良くしていること。
10月、髪が薄くなってきたので坊主にする。以降、週に2回ほど自分でバリカンを使って坊主にすることになる。
2019年、2月から別の新規店舗(並木店)の施設長となり、立ち上げを任される。自分の感情や意識の精度を上げることで結果がどうなるか確かめたかったこともあり、志願した。
前店舗と同様、利用者定員18名の店舗で、6ヶ月で120名の集客目標だったが、約4ヶ月で目標を達成し、自分が作った最速記録を更新する(もちろん他の社員やスタッフさんの協力があってのこと!)。
このことで、自分がどんな感情でいるか、何を意識しているかで、結果が変わり未来の現実が創られていくことを確信する。
2月中旬、名古屋市中川区にある「JIMLAN COFFEE」に初めて訪れ、そこで飲んだ初めての浅煎りコーヒーに衝撃を受ける。
飲んだのは、トップスペシャリティーコーヒー(パナマゲイシャ、ブラジルCOE、エチオピア)を使用したブレンド「Modern Art」で、とてもフルーティーな香りで紅茶のような味わいだった。これで、浅煎りや中煎りコーヒーの魅力にハマってしまう。
12月、施設長を離れ、複数の店舗のアドバイザー的な任務に就く。
2020年、1月から週に4日勤務の契約社員となり、「Feuno」の活動に時間を割くようになる。しかし、ほどなくして新型コロナウイルスのパンデミックが発生し、この影響により積極的な活動が行えなくなる。
長崎の友達が自家焙煎コーヒー豆の販売を開始し、早速取り寄せて飲んでみたところ、とても美味しくてビックリした。お店の名前は「Coffee Roaster Roost」。自分もいつかコーヒー豆を焙煎して販売したいという気持ちが芽生える。
7月、ハッピーちゃんとエイブラハムを知ってから、良い気分でいること、良い気分になることを最優先に生きてきて、自分の感じ方や現実の捉え方を変えていっていたところ、嫌なことがほとんど起こらなくなる。と同時に、いわゆる顎関節症の痛みや、謎の全身の筋肉痛に見舞われるようになる。
7月中旬、自宅で片手鍋を使ってコーヒー豆の焙煎を始める。上手くいったりいかなかったりで、焙煎の面白さにハマっていく。
8月上旬、YouTubeでスピリチュアルカウンセラー並木良和さんのお話しを初めて聞いて、その内容にとても共感する。
9月下旬、バイクのタイヤ交換やキャブレターのセッティングなど、比較的大掛かりなバイク整備をハーレーカスタムショップにて行う。「Feuno」の活動を開始して以来バイクに乗ることが年に数回しかなかったが、この整備でバイクの調子がとても良くなり、バイクに乗る楽しさを再認識する。
11月中旬、「自分の全てを発信して知ってもらいたい!」という思いを形にするために、ホームページにWordPressテーマ「Minimaga」を導入する。
12月中旬、コーヒー豆ガラス焙煎機KAKACOO「KAKA-G400」を導入する。
2021年、5月から自家焙煎コーヒー豆の販売を開始する。僕のコーヒー豆焙煎は、名付けて「スピリチュアルロースト(spiritual roast)」。注文したその人のことを感じながら、今のその人に合うように焙煎する、オーダーメイド焙煎。
6月下旬ごろから、なぜか不思議と音楽業界の方々との繋がりができてくる(例えば、こうけつまさき(纐纈正樹)さんとか、ダイアモンド✡ユカイさんとか)。
★自己免疫疾患、膠原病、リウマチで痛みの理解が深まる(47歳~48歳)
8月ごろから、謎の全身の筋肉痛が酷くなっていく。「さすがにこれはおかしい、何か妙なことが体に起こっている」と感じ始める。いろいろ調べていくにつれて、直感的に自己免疫疾患を発症している可能性が高いと思うようになる。
10月中旬、それを確認しようと、近所の整形外科クリニックを受診する。血液検査で炎症反応を示すCRPの値に若干の上昇がみられ自己免疫疾患の可能性もあるが、ここでは何とも診断できない、とのことだった。
10月下旬、名古屋駅にある膠原病やリウマチ専門のクリニックを受診する。その後、痛みが徐々に強くなっていき、しかたなく処方された鎮痛薬(セレコックス)を、毎日朝晩に1錠ずつ、1日2錠飲み始める。
11月下旬、血液検査結果などから「自己免疫疾患、膠原病、リウマチ、強皮症の疑いがある、全身性の付着部炎」という診断となった。抗リウマチ薬(ケアラム)を処方されたが、いっさい飲まなかった。
この病気を治すため、11月下旬から12月上旬にかけて2週間のファスティングを実施。ファスティング中は西洋薬は飲めないので、鎮痛薬のセレコックスの服用を中断。これによって全身の痛みが急激に増強し、地獄のような苦しみを味わう。
ファスティングの終盤に痛みは若干軽減したが、痛みが消えることはなかった。ファスティングは絶対ではないということを身をもって知ることになり、ショックを受けたが新たな気づきを得ることになった。
12月15日、直感に従って、名古屋の栄にある漢方クリニック「あおやまクリニック」を受診する。院長の青山先生の診察を受け、先生の言葉に励まされ安心し、処方された漢方薬を飲み始める。
12月19日、クリスタルボウル体験会&瞑想会に参加し、そこで出会った新規オープン予定のカフェ「Serendipity」の店主から、コーヒー焙煎豆の卸販売依頼を受ける(現在は行っていない)。
12月22日、スピリチュアルカウンセラー並木良和さんの冬至のイベントにオンラインで参加する。これをきっかけに、ネガティブな感情の手放しを試験的に積極的に行うようになる。
2022年、1月下旬ごろ、自分以外の人にプロとしてコーヒーを淹れたくなる。しかも、金属フィルターで。より美味しく淹れることができるよう試行錯誤していく。
2月中旬ごろ、痛みが全体的に軽くなっているのを感じる。何となくネガティブな感情の手放しが功を奏しているような感覚があった。ただ、鎮痛薬のセレコックスを減薬する気にはなれず、引き続き毎日朝晩に1錠ずつ、1日2錠を飲み続ける。
★直感で股関節痛セラピーに注力する(48歳~49歳)
3月下旬、google広告を使って世界中の股関節痛の人に自分をアピールするようにとの直感がやって来て、素直に導入する。以降、僕のLINE公式アカウントの登録者がどんどん増えていく。
4月下旬、施術用のポータブルベッドを購入しろとの直感がやって来て、素直に購入する。これにより、レンタルサロンを借りる必要がなくなり、どこでも施術ができるようになる。
5月3日から、直感に従って、僕のLINE公式アカウントで突然「股関節痛コラム」を毎日のように配信し始める。
5月中旬、レンタルルームとして使われている名古屋市東区の高岳駅近くのマンションの一室を、僕のメインのサロンにする。
6月下旬、ひょんなことから急展開で、名古屋の今池にあるカフェ「HAPUNA COFFEE」で、週に1回間借りカフェを営業することになる。
7月上旬、杏林アカデミー上級講座を受講し、そこで知り合った東京で大繁盛している治療院を経営している治療家から「そんなにも知識や技術、経験があるなら、コーヒーのことをやっている場合ではない。股関節痛のセラピーにもっと力を入れた方が良い」というようなことを言われる。
この言葉を受けて、何かピンッとスイッチが入ったような気がした。間借りカフェをオープンする予定だったが、股関節痛セラピーの方に意識が強く向くようになっていく。
7月17日、週1回の完全予約制の間借りカフェ「healing cafe Feuno」をオープンさせる。毎週日曜日19時~22時ごろまで営業。金属フィルターではなく、ペーパーフィルターで淹れることにした。
9月、飯田出張セラピーイベント、東京出張セラピーイベントをスタートさせる。
10月、全身の痛みがかなり軽くなってきているので、鎮痛薬のセレコックスの服用を寝る前の1錠だけに減らすが、痛みの悪化はみられず。寝る前だけにしたのは、痛みが最も酷いタイミングが朝起きてすぐの時間帯だから。
2023年、1月中旬、間借りカフェ「healing cafe Feuno」の営業を終了させる。下旬、大阪出張セラピーイベントをスタートさせる。
1月31日の午前4時ごろ、眠っているときに魂が外れかけるという経験を初めてする。
エレベーターに乗って急上昇する感じでかなり怖かったが、数秒で止まって穏やかになった。これはヤバいと思って、慌てて体に戻ろうとしたら、瞬時に戻った。これで自分は魂だということを確信する。
2月、直感に従って、リハビリ専門デイサービス「はなのき」の出勤日数を週3日勤務に減らす。股関節痛オンラインサロンをスタートさせる。
6月4日、手挽きコーヒー豆グラインダー1Zpressoの最上位機種「JPpro」を自宅で使い始める。浅煎りの豆でのみ使っているが、クリーンで雑味の少ないコーヒーになり、格段に美味しくなった。グラインダーの良し悪しでコーヒーの美味しさが大きく左右されることを、改めて実感する。
9月9日、直感に従って、鎮痛薬のセレコックスの服用を完全に中止するが、痛みの悪化はみられず。これで漢方薬以外の薬は飲まなくなる。痛みはほとんど出なくなる。
★完全な自由の幕明け(49歳~)
9月末、直感に従って、リハビリ専門デイサービス「はなのき」を退職する。これで完全にフリーとなる。退職するタイミングを直感で感じ取りながら計っていたので、ほとんどストレスなくスムーズに自由の身になることができた。
以降、自分の使命の一つと感じている「股関節痛セラピー」に専念できるようになる。また、サーフィンに行く回数や、バイクに乗る回数が激増。本当の意味で人生を謳歌し始める。
10月、ボイストレーニングに通い始める。先生はプロシンガーの大友玲子さん。
12月、痛みが出なくなっているので、漢方クリニックの通院を終了する。11月の血液検査の結果も良好で、炎症反応を示すCRPの値も基準値に収まっている。
これはまさに、一生治らないと言われている、自己免疫疾患、膠原病、リウマチが完治したと言っても良い状態。
このような改善結果に、主治医である院長先生も非常に喜び驚いていた。このようなことは非常に珍しいとのこと。
★今の僕
といった感じで、今の僕は完全に自由な状態で、良い気分でいることを最優先にして、直感に従って行動することを基本として生活しています。そして、ネガティブな感情や気分が湧き起こると、すぐにそれらの手放し作業を行っています。
このお陰で、嫌なことはほとんど起こらなくなり、一般的にネガティブとされる事柄もニュートラルに捉えられるようになり、よりネガティブな感情や気分になりにくくなっています。
股関節痛セラピーを始めとした「Feuno」の活動に思う存分取り組むことができ、コーヒー、バイク、サーフィン、ギターなど、好きなことにも自由に時間を費やせるようになっています。
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このコラムを読まれた方から「気持ちが楽になった」「痛みが軽くなった」とのご感想をいただくこともあり、コラムを楽しみにされている方は多いようです。
ちなみに、過去に投稿した股関節痛コラムは、こちらのページでご覧になれます⇒股関節痛コラム
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